③大きな病院へ移り検査後副乳癌と診断される

治療までの流れ

こんにちは、oba活です。本日は、数あるblogの中から、oba活のblogを訪問して下さり、有り難うございます。私のブログを偶然、今回の投稿から初めて訪問して下さった方に簡単に自己紹介をさせて頂きます。もう知っているよ!とおっしゃる方は、下の詳細説明から、宜しくお願い致します。

このブログは、私が乳癌(レベルⅣ)と宣告され、“今のところ、体の中に癌細胞は見当たりません”と、診断されるまでの、私の実体験を書いたものです。今回のブログをお読み頂き、興味をお持ち頂ければ、ぜひ、最初の投稿の方も覗いてみて下さい。

今回のブログでは、“乳癌発覚から治療までの流れ”の、③大きな病院へ移り検査後副乳癌と診断される。を、書いていこうと思います。わたしは、小さな病院のおじいちゃん先生に触診と、エコーで検査してもらい、もっときちんと設備の整った、大きな病院で診てもらうように勧められ、紹介状を手に、地元の大きな病院で診ていただきました。

その結果、副乳癌と診断されました。まだ良く調べてみないと何とも言えないけれど、と、その大きな病院の先生の言葉は全ての診断においてあいまいな面が多く、わたくしの素朴な疑問に対しても、“かもしれない”や、“はっきりわからない”と言う言葉が目立ちました。

わたしの夫は、あいまい先生に不安を感じたのか、セカンドオピニオンを希望しました。やはり命がかかっているので、夫としても、せめて、安心して妻を託したい、という思いがあったようです。

私は、あいまい先生とのことは、癌ではないかと疑われる部位に、針をさして、細胞の一部を取り、検査し、後日知らせてくれる、という組織検査が痛かったことしか覚えておらず、組織を取る瞬間の、バチン!バチン!と言う大きな音も恐怖でしたが、何よりも、あまりの痛さ!!、に、恐怖で額に汗がにじんでおりました。

その組織検査の結果で、このあいまい先生から後日、電話で副乳癌であることを知らせていただくのですが、母も乳癌で亡くなったし、いつかはわたしも・・・と覚悟はしていたものの、余りにも早い訪れでしたので、只々、驚いた!、と、いうのが正直な気持ちでした。

何よりも、どんなに私のことを大切に思ってくれているか、を知っているだけに、検査結果を、主人に伝えなければならないことが辛くて、子供たちの前ではいつも通り、笑顔で接し、寝かしつけることができても、夫に伝えるときには、申し訳なくて涙がでました。

案の定、夫はおろおろと、動揺するばかりで、パニックにおちいっていました。こんなに1番側で、サポートしてくれるパートナーが動揺していると、なぜかこちらは、どっしりしてしまうと申しますか、打ちひしがれたり、悲劇のヒロインになることもなく、自分の置かれている状況を、冷静に受け止めることができました。

こちらの病院では、待合室に、どこぞの有名ホテルのロビーの様に、ちょっとどこの窓口に行くべきか迷っているだけでも、何かお困りですか?と即座に声を掛けてくれる、コンシェルジュのようなスタッフがいてくれて助かりました。

このあいまい先生に、病院の方で、癌のある程度詳しい説明を受けた際にも、メンタルケアをしてくれるスタッフの方がついていて、あいまい先生の説明後、別室の個室へ連れていかれ、難しい説明はなかったか、今不安に思うことはないか、聞いてくれました。

このメンタルケアをしてくれるスタッフの先生に、私が当時言われたのは、あなたはまだ癌になるにはお若くて、副乳癌と言う辛い告知をされている中で、私が、今まで患者さんを沢山診てきた中でも、稀にみるほど冷静に、受け止められているんですね。まぁ、お心の中はわかりませんからね、動揺されているのだとは思いますが、大丈夫ですか?と、いたわりのお言葉をかけていただきました。

この時にはまだ私は自分の状態がステージⅣであるということを知りませんでした。夫のセカンドオピニオンの希望に、あいまい先生が、“どうぞ、どうぞ、それは全く構いませんし、すぐ紹介状を書きましょう”と、笑顔で答えた際に、私の今の身体の状態は、“生きることが難しい状態である”と瞬時に覚悟をきめ、夫に、更なる不安を与えないように気をつけました。

結局、夫婦でよくよく話し合い、私の“生きるため”の治療は、わたしの生まれ故郷である福岡の地で始めることとなり、セカンドオピニオンは福岡の病院に決めました。今回の投稿は以上となります。

次回の投稿は、乳癌発覚から治療までの流れの詳細の④セカンドオピニオンをお願いし、生まれ故郷の大きな病院に行く。を、投稿したいと思います。本日も、私の投稿をご覧下さり、有り難うございました。

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